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プロローグ

風土病・地方病とは   わが国は国土こそ狭いが南北に長く、北は寒帯から南は亜熱帯まで、幅広い気候帯を有する。そのため、日本は各々の気候帯・地域において豊かなバイオームを形成している。一方、人々は起伏の激しい山間部から湿潤な平地まで国土の隅々に進出し、古来より自然の恩恵を受けて暮らしてきた。しかし、自然は自然災害や野生生物による作物被害など、恩恵だけではなく多くの災いももたらす。また、災いは人々を取り巻く自然災害などの外部環境だけでなく、体内(内部環境)にも健康被害を与える。なぜなら自然と共生するということは、その地域のバイオームの中に組み込まれることに他ならないからだ。「風土病」・「地方病」とは、そのような各地方・風土に特化した疾病のことであり、学問的に見ればそれぞれのバイオームに即した医動物学(広義の寄生虫学)ということになる。 負の遺産  昨今、世間では「legacy(遺産)」という言葉が、もてはやされている。 東京都の小池都知事も都政改革本部・第2回会議において「レガシーをワイズスペンディングで使って作って行く」と発言するなど「legacy(遺産)」という言葉が新聞やテレビで日々流れている。また、近年様々な学会では、その分野にとって歴史的に重要な構造物を次世代に残そうという動きが活発化している。例えば土木学会や機械学会では「 土木遺産 」や「 機械遺産 」と呼んで学術的・文化的に重要なものを指定し、公表している。また、復興庁は東日本大震災の惨禍を語り継ぎ、自然災害に対する危機意識や防災意識を醸成する事を目的に、関連する構造物について「 震災遺構 」として保存する活動を支援している。  一方、現代における寄生虫症は、風土病や地方病が存在していた頃のようなバイオームに根ざした局所的な僻地の疾病から、ペットや家畜に由来する人獣共通感染症や、海外から持ち込まれる輸入感染症、それらに起因する新興再興感染症、そして流通の飛躍的な進歩や食文化の多様化に伴って発生する食品媒介感染症など、流動的かつグローバルな感染症へと変貌している。しかし、かつての流行地では現在、病気こそ根絶しているが、寄生虫やその宿主がこの地球上から絶滅したわけではないため、潜在的な危険性は残り続けている。どのような地域に、どんな病気があり、どのように対処し、封じてきたのか。各地に残る風
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力道山をプロレスへと導いた風土病

力士としての力道山  終戦後、意気消沈していた日本人に、勇気と自信を取り戻させた男、力道山。彼が大相撲の力士だったことを知っているだろうか。その力士、力道山が大相撲からプロレスラーへ転向した背景には、ある風土病が深く関わっていた。  力道山の初土俵は1940(昭和15)年、5月の夏場所であった。その後、9場所という驚くべきスピードで序ノ口から十両へと駆け上がる。この間に全勝優勝を2回果たし、負け越しは1回だけであった。得意技は突っ張りと張り手、そして外掛け、特に突っ張りと張り手については右に出るものがいなかったという。その後も、わずか8場所で東の小結に、引退の前年となる1949(昭和24)年には西の関脇にまで出世する。しかし、関脇として初登場する同年の夏場所直前、アクシデントに襲われた。全身が熱っぽく咳や痰がとめどなく出て、吐き気も止まらない。体重も18kg落ち、力も湧いてこない状態になってしまった。休場こそしなかったが、この場所の成績は3勝12敗という散々な結果に終わる。結果、関脇の座はわずか1場所で吹き飛び、それからわずか1年後の1950(昭和25)年9月、自宅台所の刺身包丁で自ら髷を切り、大相撲を引退する(図1)。 図1. 報知新聞 1950年9月12日付, 3(2) 力道山を襲った病魔  当初、体調不良の原因は不明であったが、その後の入院・検査で原因が判明する。後に力道山の個人秘書となる吉村義雄氏がその著書「君は力道山を見たか」において以下のように書き残している。 ある晩、野村ホテルにいったら、ボハネギーが言うんです。 「吉村、リキが病気で入院しているぞ」 ...(中略)... 「病気っていったいどうしたの?」 と、わたしは訊いた。 「それがフルーク・インフェステーション(fluke infection)だっていうんだ」 「フルーク・インフェステーション?」 「うん、ジストミアシス(distomiasis)」 「ジストマ(distoma)か?」 「そうそう、ジストマとかいってたよ」 「入院しているの、どこに?」 「人形町の明治病院っていうとこ......」  早速わたしは、人形町の明治病院へ花束を抱えてお見舞いに行きました。 ...(中略)... 「リキさん、いったいどうし

八重山熱と戦争マラリアの地を訪ねて

秘境としての西表島  東京から約2,000km、日本の最南西端、沖縄県・八重山列島に属する西表島は、北緯24°、東経123°の東シナ海上に浮かぶ島である。年間の日平均気温は23.7℃、平均降水量は2,304.9mmの亜熱帯に属する。島の面積は、沖縄本島につぎ、県で2番目(289.61km 2 )の大きさを誇るが、島の約90%は亜熱帯の原生林に覆われている。そのため、サンゴ礁の海岸に向かい山岳林から平地林、海岸林と連続したバイオームを見ることができる(図1)。また、島の中央には469.5mの古見岳をはじめ400m級の山々が連なるため、その山々を水源とする多くの河川が存在し、河口付近には広大なマングローブ林がみられる。  西表島を含む南西諸島の島々は太古の昔、ユーラシア大陸や本州と陸続きあるいは孤立、水没を繰り返してきた。西表島は、その間も完全に海に没しなかったために大陸から渡ってきた生物が島に取り残され、独自の進化を遂げることができた。その結果、イリオモテヤマネコをはじめ、独特の生物相(遺存種・固有種)の形成・現存を可能にしたと考えられている。1972年には西表島の全域および近隣の島々を含めたサンゴ礁海域が「西表石垣国立公園」に指定されている。近年では、これらの地域全体を世界自然遺産とする動きも活発になってきている。そのような動きの中で、自然環境を対象とした「エコツアー」が人気を博し、観光客も年々増加している。  西表島が今日のように、手付かずの原生林が多く残された背景には、この地でかつて猖獗を極めた風土病「 八重山熱 」が深く関係している。 図1. 古見岳の山腹にあるユチンの滝からの眺望 八重山熱(ヤキー)とは  かつて、西表島を中心に八重山列島では山野・沼地の湿気に触れたり、河川の水を飲むことで「八重山熱」・「風気(瘴癘)」という風土病に罹患することが一部で知られていた。この病は、体を焼き尽くす高熱が出て内臓が侵される事から、島民の間では「エーマ(=八重山)・ヤキー(=焼き)」とよばれていた。  八重山熱の病名について初めて公に言及し、八重山列島が注目されるきっかけとなるのが、1882[明治15]年、田代安定(鹿児島県御用係・農商務省御用係兼務)によりまとめられた「沖縄県下先島回覧意見書」とされる。 この意見書は、田代が農商務省か

かつての片山病流行地を訪ねて

福山市の独立丘陵「片山」  広島県福山市は人口、約46万人の地方都市で、備後地方を流れる芦田川のデルタ地帯に作られた福山藩の城下町を起源とする。3〜4千年前、福山市いったいは「穴の海」と呼ばれる広大な湿地帯あるいは遠浅の海であった。特に今回訪れた片山周辺は戦国時代まで広大な湿地帯(神辺平野)が広がっていた。しかし、関ヶ原の戦いの後、水野勝成が福山に入封すると河口付近を埋め立て、城下町をつくり、片山周辺の湿地帯は水田へと変えられてゆく。市の中心駅である福山駅から北に約5km、神辺平野を流れてきた芦田川と高屋川が合流する地点のすぐ東側、標高約70m、東西480m、南北180m、平坦な水田の中にそれはある(図1)。 図1. 高屋川の土手から片山を望む(手前は川南排水機場) 片山病について  かつて片山の周辺では、水田に入ると湿疹ができ、原因不明の不治の病を患うことが知られていた。そのためこの病を「片山病」とよんでいた。いつの頃からこの病が存在していたのかは不明だが、恐らく片山周辺に広がる湿地の水田開発が行われた後に罹患者が増加し、広く認知されるようになったと考えられる。症状に関する記述は明和元(1764)年に有馬喜惣太が作成した「中国行程記」において既に以下のような記述が見られる。 此の古城は形山の城と云、神辺村の川南分の城と云なり、此辺の田の中え入れは人別足かぶれて難義す、夫故漆山共云、東の方尾根筋に堀切二ヶ所有、矢倉の跡多し、城主知らず  これによると形(片)山にはかつて城主不明の山城が築かていたようである。また、この周辺の水田に入ると足に湿疹ができることから、「漆山」とも呼ばれていたことがわかる。片山病について、その病状を初めて克明に報告したのは、肥後国沼隈郡山手村(現在の広島県福山市山手町)の漢方医、藤井第二郎好直である。彼は弘化4(1847)年に「片山記」を作成し、その中で症状について以下のように記述している。 近時二三年間、春夏の交、土民田を耕して水に入れば足頸に小疹を発し痛痒忍ぶべからず。牛馬また然り。人皆大いにこえを患う。以て漆気(しっけ)の故となす。また患い泄瀉する者多く、その症、面色(めんしょく)萎黄(いおう)、盗汗肉脱(とうかんにくだつ)、脈皆細数なお癆さいを疾す。水瀉するものあり、夷急後重する者あり、下血する者あ