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八重山熱と戦争マラリアの地を訪ねて

秘境としての西表島

 東京から約2,000km、日本の最南西端、沖縄県・八重山列島に属する西表島は、北緯24°、東経123°の東シナ海上に浮かぶ島である。年間の日平均気温は23.7℃、平均降水量は2,304.9mmの亜熱帯に属する。島の面積は、沖縄本島につぎ、県で2番目(289.61km2)の大きさを誇るが、島の約90%は亜熱帯の原生林に覆われている。そのため、サンゴ礁の海岸に向かい山岳林から平地林、海岸林と連続したバイオームを見ることができる(図1)。また、島の中央には469.5mの古見岳をはじめ400m級の山々が連なるため、その山々を水源とする多くの河川が存在し、河口付近には広大なマングローブ林がみられる。
 西表島を含む南西諸島の島々は太古の昔、ユーラシア大陸や本州と陸続きあるいは孤立、水没を繰り返してきた。西表島は、その間も完全に海に没しなかったために大陸から渡ってきた生物が島に取り残され、独自の進化を遂げることができた。その結果、イリオモテヤマネコをはじめ、独特の生物相(遺存種・固有種)の形成・現存を可能にしたと考えられている。1972年には西表島の全域および近隣の島々を含めたサンゴ礁海域が「西表石垣国立公園」に指定されている。近年では、これらの地域全体を世界自然遺産とする動きも活発になってきている。そのような動きの中で、自然環境を対象とした「エコツアー」が人気を博し、観光客も年々増加している。
 西表島が今日のように、手付かずの原生林が多く残された背景には、この地でかつて猖獗を極めた風土病「八重山熱」が深く関係している。
図1. 古見岳の山腹にあるユチンの滝からの眺望

八重山熱(ヤキー)とは

 かつて、西表島を中心に八重山列島では山野・沼地の湿気に触れたり、河川の水を飲むことで「八重山熱」・「風気(瘴癘)」という風土病に罹患することが一部で知られていた。この病は、体を焼き尽くす高熱が出て内臓が侵される事から、島民の間では「エーマ(=八重山)・ヤキー(=焼き)」とよばれていた。
 八重山熱の病名について初めて公に言及し、八重山列島が注目されるきっかけとなるのが、1882[明治15]年、田代安定(鹿児島県御用係・農商務省御用係兼務)によりまとめられた「沖縄県下先島回覧意見書」とされる。 この意見書は、田代が農商務省からの命により南西諸島におけるアカキナノキ(Cinchona pubescens Vahl, 1790)の栽培の可能性について調査したものを元にまとめられたものであるが、内容は日本防備のための開拓案的な要素が色濃い。その中に八重山列島の風気(瘴癘)について以下のような記述がみられる。
 本島には、土人の所謂風気(即ち瘴癘毒)なるもの最も旺盛にて、民庶絶て繁殖せす、尚依然たる混沌世の風況を免れす。方今開明の世に当て、我か版図中の一部に、豈斬の如き不幸なる生涯を渡しむへけんや。然り而して、此病因に付いては諸説紛々、或は山霊の気蒐鐘する所となし、或は山中に一種の毒物ありと為とし、或は陽気の陰気に圧倒さるものと為す等、殆んと拠言し難し。之を医員等に質すに、其病症は彼の印度・台湾辺に能く流行せる麻刺利亜熱なるものにて、凡そ暖熱国にて深山曠沢を扣へたる場所には、必す此等の病気ありという。 
 このように、風気(瘴癘)をマラリア(麻刺利亜)と結論づけている。背景には、日本の南方進出が、この調査に深く関わっているからだと思われる。1871[明治4]年、台湾に漂着した宮古島島民が、牡丹社のパイワン族に馘首される事件がおこる。この事件を皮切りに日本は台湾出兵をおこなう。出兵の真の目的は台湾の占領であったにも関わらず日本軍はマラリアによる多数の死者を出し、撤兵することとなった。当時のマラリアの特効薬は南米原産のアカキナノキの樹皮からつくられるキニーネであったが、アカキナノキはオランダ領のインドネシアで独占的に栽培され、高価で取引されていたため入手が困難であった。したがって、日本は国内でアカキナノキを栽培し、キニーネを生産する必要に迫られたのである。日本の防備のために調査が行われ、光があてられるとは何とも皮肉な話である。
 八重山熱の正体が実際に確認されるのは1894[明治27]年に行われた三浦守治(東京帝国大学・医科大学教授)と三角 恂(同大学・助手)らによる調査である。この翌年まとめられた「八重山群島風土病研究調査報告」によると、マラリアを引き起こすマラリア原虫(Plasmodium sp.)を罹患住民の血液中から発見するとともに、発熱症状から、いくつかのタイプに大別している。なお、現在この地域には3種類のマラリアが存在していたことが知られている。その正体(マラリア原虫)については、1910[明治43]年に沖縄県技師として赴いた中川恒次郎(東京医科大学・助手)らの調査で存在が確認されている。
 マラリアとそれを引き起こす原虫(三日熱マラリア原虫:Plasmodium vivax;四日熱マラリア原虫:P. malariae;熱帯熱マラリア原虫:P. falciparum;卵形マラリア原虫:P. ovale)についての詳しい説明はここでは略す。詳しく知りたい場合には、国立感染症研究所・寄生動物部の「マラリアとは」を熟読されることを勧めする。

八重山熱の流入起源 

 八重山列島のマラリア(八重山熱)がいつの頃から存在するのか。口碑では、1531[享禄4]年に仲良川河口に漂着したオランダ船により、この病が持ち込まれたとされる。詳細は、八重山士族・錦房氏の事跡をまとめた「慶来慶田由来記」に記されているとされてきた。そこで琉球大学附属図書館公開の「慶来慶田由来記」を確認すると、オランダ船漂着に関して以下のような記載がみられた。
 其の時分に阿蘭陀船二、三年越にて漂流着致候事は通有之阿蘭陀船離みじゆ漂着仕候物三段帆船漕出阿様之次弟相尋候得へば又かけつにかけ卸し帰宅させ候尤阿蘭陀船滞船中折々野菜肴水薪木進上仕候其上いにだと申す所牛牧相構牛七、八拾疋余飼立置候に付五、六疋取白米二、三石余進上仕候盧右礼儀物仕度候間阿色望にて候哉被申付何色望不申御所持之犬男女を望候に付是被下度申上候処悦男女二区被下候
 ここには漂着船に対して、食料・水・日用品等を与え、お返しに犬2頭(オス・メス)を貰い受けたと記されているが、マラリア(八重山熱)に関する記述は見つけることはできなかった。今回確認したものも含め、現存する「慶来慶田由来記」は全て写本と考えられている。したがって、見つかっていない他の写本や正本に八重山熱の流入に関する記述が存在する可能性もあるが、現存する10冊ほどの写本にもこれらに関する記述がないことや、八重山列島における環境・文化の観点からも、現在漂着船によるマラリア流入説は否定されている。

遠距離通耕と八重山熱

 八重山列島および宮古島では、わが国に広く分布していた三日熱マラリアの他に、四日熱マラリアと短時間に重症化し死亡リスクの高い熱帯熱マラリアの3種類が存在していた。マラリアの分布は、マラリア媒介蚊の有無や人間の活動など、生活環の維持を可能とする条件について考える必要がある。
 西表島は、沖縄本島から南西約430km、台湾から東北約180kmと距離的にみても台湾に近いため、バイオームに関してもより台湾に近似している。それは各種マラリア原虫を媒介するハマダラカ属(Anopheles spp.)の蚊の生息域に関しても同様のことがいえる。本州では三日熱マラリアの媒介蚊として一般的にシナハマダラカ(Anopheles sinensis Wiedemann, 1828)が知られているが、西表島をはじめ石垣島や宮古島にはあまり生息していない。それに対し、これらの島ではシナハマダラカより熱帯熱マラリアに対する感受性が高いコガタハマダラカ(A. minimus Theobald, 1901)が優勢とされる。この差は台湾にいくほど顕著で、台湾にはシナハマダラカは生息しない。この分布差が八重山列島および宮古島に、3種類のマラリアの分布を可能にした一因と考えられる。
 八重山列島は西表島や石垣島をはじめ、竹富島など10の有人島から構成されている。これらの島々には先史時代に南方から漸次、黒潮にのって北上してきた人々が定住したと考えられている。3種類のマラリアも、この人々の移動に伴い持ち込まれたと考えられる。しかし、八重山列島の全ての有人島にマラリアが分布していたわけではなく、主に石垣島と西表島でマラリア罹患者が確認されていた。マラリアが分布・定着するか否かはマラリア媒介蚊の生息の有無に依存する。生息条件、つまりマラリア媒介蚊の生息に適さない島と、マラリア媒介蚊の生息に適する島に分けられるということだ。このマラリア媒介蚊の生息条件の違いは、それ以外の条件でも島を2つに分けることができ、一般的に環境・資源等が豊かであるがゆえに疫病に罹患するリスクの高い島を「高い島(high land)」、その逆の島を「低い島(low land)」と分類できることが知られている(表1)。また、この分類は2つの地域間で生きる人間の環境適応・文化形成をも説明することが可能とされ、八重山列島においては、マラリア罹患のリスクを軽減しながら資源を有効活用する人口維持システムとして発達した「遠距離通耕」の説明に使われる。つまり、人々はマラリア媒介蚊が生息しない「低い島」である竹富島や鳩間島、新城島等に定住し、マラリア媒介蚊の生息する西表島等の「高い島」に通い稲作をおこなうというものである。「低い島」は、いずれもサンゴの造礁により形成された琉球石灰岩を主とするため、農作物の生産性が低く、島内の資源だけでは生計を維持できなかったのだ。この遠距離通耕がどのような点でマラリアの罹患回避に有効であったのか。その理由として以下の2つのことが考えられる。

1. 通耕地に近い海岸周辺に田小屋を建てた

 かつて遠距離通耕を行っていた島民は、耕作地周辺の海岸やなどに出作りの小屋「田小屋」を建て、食事や休憩をとっていた。通耕には西表島に自生するリュウキュウマツ(Pinus luchuensis Mayr, 1894)を丸ごと1本使用した刳舟が多く用いられ、操舟に長けた竹富島の島民でさえも、耕作地のある西表島東北部まで(約20km)は順風時で2時間、向い風や無風時では半日以上を要したという。そこで田植えや収穫などの繁忙期には一時的な寝泊まりを行う合宿所としても田小屋は使われた。この田小屋はマラリア媒介蚊の生息密度が低い海岸周辺につくられたため、主に通耕をおこなっていた生産年齢男性のマラリア罹患リスクを軽減したと考えられる。

2. 主に生産年齢男性が通耕を行った

 一般的に、マラリアに罹患した妊婦は、重篤な症状に陥りやすい。また、マラリア流行地では妊婦の重症貧血・流産・死産・低体重児出産の頻度が高まることから、出生率が低下するといわれ、乳幼児の死亡率についても高いことが知られている。つまり、生産年齢男性が主体となり遠距離通耕を行うことで、マラリアに対して弱い、幼児や再生産年齢女性を保護できたため、集団内での生存機会を拡大することができたと考えられる。
表1. 八重山諸島における島の分類
高い島低い島
自然環境
マラリア媒介蚊の生息地
森林
土壌赤黄色土テラロッサ
地形 山地
   丘陵の起伏
   台地(段丘)砂礫石灰岩
   低地谷底海岸
生活環境
水資源河川地下水
主要土地利用様式水稲耕作焼畑耕作
主要栽培穀物イネアワ
藤井 (2014) より改編

八重山熱の流行と太平洋戦争

 資源を有効活用するための遠距離通耕は、沖縄弧全体で発展した資源運搬手段の1つに位置付けられ、このような島嶼間海洋交通の発展が、八重山列島においては特にマラリアへの適応戦略として有効にはたらいたと考えられる。しかし、この地域のマラリアの流行は繰り返し引き起こされてきた。大きなものだけでも琉球王国時代の入植、戦時中の強制疎開、終戦後の移住促進の際に流行が起こっている。いずれも高い島への大規模な人口移動(移住)により引き起こされているのが特徴である。

・琉球王朝時代から続く圧政

 かつて、八重山列島の島民は近世から続く圧政に苦しんできた。それは辺境ゆえの差別的なしわ寄せといわれる。その政策が結果的に、マラリアの流行に繋がっていくのだが、事の発端は薩摩藩が1609[慶長14]年に行った、琉球征伐とされる。討伐後、琉球王国は薩摩藩に屈し、清朝・薩摩藩の両属に帰したため、経済・食糧は困窮する。そして、1637[寛永14]年から八重山列島の島民に人頭税が課されることとなるのである。この時、水稲耕作地に適する八重山列島では、コメが納税対象となる。この人頭税の導入によりコメの収穫量を増やす目的で、水稲耕作地が広げられた。このことから、以前は人頭税の導入がマラリア流行につながったと考えられていた。しかし、琉球王府は人頭税の完納を着実に履行するため、島民に対し、移住等の自由を禁じた。そのことから、現在では流行の直接の要因にはならなかったと考えられている。つまり、遠距離通耕を盛んにはしたが、マラリア媒介蚊の生息する(開墾)耕作地には依然、生産年齢男性しか入らなかったため、生産年齢男性のマラリア媒介蚊に対する暴露時間を上昇させただけであったと考えられる。
 現在、流行の原因として有力視されているのは琉球王国の政治家、具志頭親方蔡温(ぐしちゃんうぇーかたさいおん) がおこなった「寄人(よせぴと)制度」による新村建設とされる。この政策は過剰な人口の「低い島」から「高い島」(西表島・石垣島)に島民を移住させ、新村を建設させることで、コメの生産量増加による税収増を目論むものであった。しかし、新村の多くは、その後たびたび住民の補充が行われたにも関わらず、人口の減少が止まらずに廃村に至る。原因は当然、マラリアである。結果的に人口密度の差はさらに広がり、マラリアによる犠牲だけが増えるだけであった。この人口密度の差は1892[明治25]年の人口統計でも確認することができる。西表島(高い島)では1km2あたり3.7人に対して、新城島(低い島)で68.6人、鳩間島(低い島)で169.8人と、「高い島」に対して「低い島」が過剰な人口密度を有していたことがわかる。

・戦中の強制疎開と戦争マラリア

 南西諸島では戦中から戦後にかけて全域でマラリアが流行したが、八重山列島はその中でも特に猖獗を極め、多くの死者を出した。大きな要因は島民の強制疎開とされる。1944[昭和19]年日本軍(陸軍省・海軍省)は「沿岸警備計画設定上の基準」を閣議決定する。その中に非戦闘員を島嶼内の然るべき場所に移住させるとの内容が記されていた。これは台湾および南西諸島を本土防衛の要(防衛線)と位置づけ、非戦闘員を移住させることで軍の作戦を容易にする狙いがあった。八重山列島においても、これに従い「県民指導八重山郡細部計画」がつくられた。1945[昭和20]年4月、沖縄本島に米軍が上陸し、八重山列島でも空襲を受ける。八重山列島での地上戦はなかったが空襲により西表炭坑などが狙われた。1945[昭和20]年6月、先の計画に基づき石垣島では住民に避難命令が出され、疎開が開始される。西表島周辺の波照間島等では、その2〜3ヶ月前(3月〜4月)より既に西表島への疎開を開始していた。この疎開時期の違いは、軍令を出した日本軍の組織と関係がある。
 当時、八重山列島には独立混成第45旅団が編成され、石垣島や竹富島等の島にも駐屯していた。石垣島での疎開は、この第45旅団・宮崎旅団長により軍令が下される。同島の疎開先は、高密度のマラリア媒介蚊が生息する於茂登岳山麓等であった。しかし、波照間島等の一部の島には「離島残置工作員(残置諜者)」が配置されていた。彼らはいずれも陸軍中野学校出身(将校下士官)で、正規の日本軍壊滅後、青年学校の生徒を訓練・組織し、ゲリラ(遊撃)戦をおこなうことを目的としていた。なお、このような工作員は大本営陸軍直轄特殊勤務隊として全国に配置されたとされる(ただし、南西諸島では独立混成第45旅団の上部組織である沖縄第32軍が独自に工作員を配置)。また、西表島・祖納では既に青年学校の生徒を中心とした、西表護郷隊という遊撃隊が組織されていた。
 この戦争での八重山列島全体におけるマラリア罹患者は16,864人、そのうち死者は3,647人であった。罹患率は53.8%と半数を超える。その中でも最も悲惨であったのが波照間島である。なんと島民のマラリア罹患率は98.7%(罹患者1,259人うち死者461人)、罹患しなかったのはわずか16人という惨状であった。そのため、島民を強迫し強制疎開を先導・指揮した青年学校の教員、山下虎雄は今でも糾弾され続けている。山下は本名を酒井 清といい、陸軍中野学校出身の離島残置工作員であった。彼はまず、朝日新聞の記者として沖縄に潜入すると、その後酒井代輔(軍曹)と名前をかえ、西表護郷隊に入った後に波照間島に渡る。波照間島には突如、青年学校教員として現れ、銃剣道の指導や軍事訓練を連日おこなっていたという。周囲の職員も山下の職名は不明であるものの、職員室の彼の周りには幾つもの火薬箱が置かれていたため、単なる指導員でないことは薄々気付いていたようである。
 1945[昭和20]年3月山下は、突如豹変する。中尉・山下虎雄と名乗り西表島への疎開を強いるのである。異論をとなえれば恫喝し、日本刀をかざして強迫したという。結局島民は山下の命令に屈し、西表島の南風見に疎開することになる。この時、島の家畜は疎開先に連れていけないため、そのほとんどが屠殺され、多くが石垣島に駐屯する軍に食料として送られた。山下はこの食料供出(食料確保)のために島民を強制疎開させたともいわれる。
 この時期、波照間島の島民以外にも西表島近辺の島の多くは西表島に疎開している。しかし、波照間島島民が突出してマラリアに罹患している。その要因として主に2つのことが考えられる。

1. 疎開先開拓の必要性

 波照間島以外の西表島周辺の人々は、遠距離通耕をおこなっていたため、西表島の耕作地周辺に疎開することができた(図2)。そのような人々は疎開先に耕作地や家畜、田小屋や多少の食料もあったため波照間島島民より、地の利があったと考えられる。一方、西表島に遠距離通耕先をもたなかった波照間島島民は、マラリア媒介蚊が高密度に生息する山に入り、疎開地をはじめからつくらなければならなかったために様々な面で不利であった。

2. 疎開先におけるマラリア媒介蚊の分布

 かつて疎開先の南風見は「寄人制度」により南風見村がつくられていた。そこで暮らしていたのは、波照間島からの寄百姓であった。しかしその後、マラリアにより廃村になったといわれる。このことからも、南風見は特にマラリア罹患のリスクが高い地域であったと考えられる。
図2. 遠距離通耕地(右)と強制疎開先(左)

・戦後の入植と輸入マラリア

 沖縄本島では米軍の上陸にともない終戦直後から、DDTの散布などマラリア対策や食料支援がおこなわれたのに対し、八重山列島では米軍の上陸が無かったために対策・支援が遅れる。また、日本軍の駐屯が島の食料・医薬品等を逼迫させていた上に、疎開する際に耕作地を放棄し家畜も屠殺していたため食糧難に陥った。食糧難は栄養失調に直結し、マラリアに罹患した場合、より重症化しやすくなる。また、三日熱マラリアを媒介するシナハマダラカはヒトより家畜を吸血源として好むことが示唆されている。そのため屠殺による家畜の急激な減少は、島民にとって熱帯熱マラリアを媒介するコガタハマダラカに刺されるリスクが上昇した可能性がある。
 その後、米軍による救援物資(コメ・塩・マラリア治療薬アテプリン等)が八重山列島に届くのは1945[昭和20]年12月になってからである。
 終戦から8年後の1953[昭和28]年、終戦直後の流行が鎮静化してきている中、夏毎に徐々に罹患者が増え、流行が再び起こる。この流行は1957[昭和32]年まで続くこととなる。以前は戦後の引揚帰還者により、マラリアが持ち込まれたことで流行が引き起こされたと考えられていた(輸入マラリア)。しかし、現在では戦後に非マラリア分布地域からの移住・入植によって流行が引き起こされたと考えられている。
 米軍・沖縄民政府は戦後の人口増加と土地不足を解消するため八重山列島の開拓を促進する。最も早い入植とされるは宮古島から西表島・住吉への移住である。また西表島では、マラリアのため廃村寸前であった上原や船浦に鳩間島の島民が移住する。遠距離耕通のための田小屋があった由布島でも、それらを足掛かりに竹富島島民や黒島島民などが西表島に移住する。このようにかつての耕作地に移住する場合もあったが、新たに建設された集落の多くは開拓行いながら苦労し、入植が進められた。その結果、不安定な生活と山野にわけ入っての過酷な開墾作業がマラリア流行につながったと考えられる(熱帯熱マラリアを好適に媒介するコガタハマダラカの幼虫は山の湧水からの渓流に多く生息し、三日熱マラリアを好適に媒介するシナハマダラカが水田、休耕地や湿地を好み生息する)。

マラリア撲滅と戦争マラリア事件

マラリア撲滅までの流れ

  • 1882[明治15]年:田代安定はキナノキの生育環境に関する調査をし、その意見書の中でマラリアについても言及
  • 1886[明治19]年:西表炭坑でマラリアが流行(前年より試掘開始)
  • 1894[明治27]年:「沖縄県八重山島風土病駆除ニ関スル建議」(図3)が提出され、政府は三浦守治らを調査に派遣(初めてマラリア原虫を確認)
  • 1897[明治30]年:三浦らの調査にもとづき流行地でキニーネの配布を開始
  • 1903[明治36]年:人頭税を廃止し、移住・移動が自由となる
  • 1911[明治44]年:沖縄県議会でマラリア撲滅法が可決される
  • 1913[大正2]年:沖縄県は財政難からキニーネの配布を中断
  • 1918[大正7]年:八重山・マラリア撲滅期成会が発足
  • 1919[大正8]年:「沖縄県ニ於ケル「マラリヤ」予防撲滅ニ関スル建議」(図3)が議決され、これにらに基づき「マラリア予防班事務所」を設置;同年、総督府防疫官である羽鳥重郎が台湾からカダヤシ(Topminnow)9匹を八重山に移入
  • 1921[大正10]年:「マラリア予防班設置規則」にもとづき、マラリア予防班事務所が八重山島庁内に開設
  • 1922[大正11]年:マラリア予防班事務所が第二班を西表島祖納に開設し、Koch法によるマラリア防遏作業を開始
  • 1926[大正15]年:マラリア予防班事務所がマラリア防遏規則・県令20号の制定し、マラリア防遏所と改称
  • 1929[昭和4]年:マラリア防遏国費予算が減額され、防遏所の機能が衰退
  • 1930[昭和5]年:マラリア防遏所存続に関する県民大会が開催され、マラリア防遏所の存続決議を採択し、請願書を知事宛に提出
  • 1938[昭和13]年:西表マラリア防遏所の庁舎落成
  • 1941[昭和16]年:西表島の内離島に駐屯する部隊でマラリア流行
  • 1942[昭和17]年:西表島に国立南風見マラリア診療所を設置
  • 1943[昭和18]年:マラリア防遏業務を防空壕に移転
  • 1944[昭和19]年:八重山で初の空襲
  • 1945[昭和20]年:4月、軍令による強制疎開により、マラリア大流行;8月19日、八重山に4日遅れで終戦の情報がもたらされる;12月23日、米軍が八重山に進駐し医師会にアテプリン120万錠を供与するとともに防圧に着手;12月28日、米軍の指示により、八重山支庁に衛生部を設置、八重山郡医師会が臨時マラリア診療所を開設
  • 1946[昭和21]年:1月、各離島にマラリア診療開始;2月、臨時マラリア診療所を廃止し、八重山仮支庁衛生部にマラリア防遏課を設置
  • 1947[昭和22]年:7月、米軍政府供与のDDTを初めて使用;12月、八重山民政府がマラリア撲滅取締条例を公布;同月、沖縄本島や宮古島から八重山開拓のための移住開始
  • 1949[昭和24]年:マラリア患者数が初めて戦前のデータを下回る
  • 1950[昭和25]年:11月、沖縄民政府による計画移住開始;同月、八重山群島政府がマラリア防遏所を設置
  • 1951[昭和26]年:3月、八重山群島政府がマラリア撲滅に関する取締条例を公布; 10月、八重山群島政府が八重山保健所を設置
  • 1952[昭和27]年:八重山群島政府廃止に伴い八重山保健所は琉球政府厚生局へ移管
  • 1954[昭和29]年:マラリア患者急増により流行地の一斉採血開始
  • 1956[昭和31]年:琉球民政府社会局にマラリア防遏課を設置
  • 1957[昭和32]年:6月、406th Medical General Laboratory(通称406部隊)の昆虫学者Wheeler Charles M. が八重山・宮古を調査し、WHOで考案されたDDT屋内残留噴霧法(residual spray)にもとづく防圧計画(通称Wheeler plan)を立案;9月、Wheeler planに従い、DDT屋内残留散布作業を開始
  • 1959[昭和34]年:八重山群島マラリア患者発生統計において11月に月別患者0人を記録
  • 1960[昭和35]年:非流行地におけるDDT屋内残留散布を停止
  • 1962[昭和37]年:マラリア患者発生0人を記録し、流行地におけるDDT屋内残留散布を停止
  • 1963[昭和38]年:米民政府によるマラリア撲滅事業費(移住資金特別会計)打ち切り
  • 1978[昭和58]年:マラリア終焉記念・第10回沖縄県公衆衛生学会開催
図3. 沖縄県ニ於ケル「マラリヤ」予防撲滅ニ関スル建議(右)と沖縄県八重山島風土病駆除ニ関スル建議(左)の冒頭部分

マラリア原虫を含む全ての寄生動物の生活環解明は、生物学的な意義以外にも様々な面で重要となる。従ってマラリアの蚊媒介説の証明は重要な転機となった。この説は、1898[明治31]年、Ross R. はインドにおける研究に端を発し、Grassi B., Bignami A. & Bastianelli G. (1899) らのイタリアにおける研究で確定的となる。これはその後のマラリア撲滅への流れにも大きく寄与したので、ここに付け加えておく。

戦争マラリア事件

 1989[平成元]年に、強制疎開の責任を問う「戦争マラリア事件」が勃発する。沖縄県は同年「沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者の遺族補償に関する意見書」を決議する。遺族らは国の補償を求めた。その結果、1995[平成7]年国はマラリア慰籍事業による国庫拠出を決定し、これにより1997[平成9]年には石垣島・バンナ公園南口 石碑の森に「八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑」(図4)が1999[平成11]年には「八重山平和祈念館」(図5)がつくられる。
図4. バンナ公園にある八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑
図5. 八重山平和祈念館の玄関

西表島に残る遺構

 3月初旬、羽田から飛行機で3時間半、八重山列島の玄関口である石垣島(南ぬ島石垣空港)には、10時頃に到着した。東京はまだ最高気温がやっと10℃を上回る程度であったが、石垣島の最高気温は21.1℃と、初夏のように過ごしやすい気温であった。空港からはバスに乗り島の南にある石垣港出ると、そこからフェリーで西表島・大原港に向かった。西表島内は港近くのゲストハウス(島時間)で借りた原付で移動することにした。 
 まずは、南風見田(はえみだ)にある忘勿石(わすれないし)の碑に向かうため、215号線を南に下る。大原港の街を抜け、大きく右折すると、そこにはサトウキビ畑が広がっていた(図6)。
図6. 南風見田に広がるサトウキビ畑
 南風見周辺の平地はかつて南風見村の水稲耕作地と、新城島(あらぐすくじま)島民の水稲耕作地があったと言われるが、現在ではサトウキビ畑や牧草地になっていた(図7)。
図7. 南風見田にある山羊の放牧地
 海岸沿いのに広がる南風見の平地を4kmほど進むと、忘勿石の案内板が見える。そこを左折し脇道を少し走ると、駐車スペースに到着する。この時、駐車場には人影もなく鬱蒼とした雑木林に、忘勿石の碑への道を示す石のアーチだけがポツリと見えた(図8)。
図8. 忘勿石 入口
 雑木林の薄暗い遊歩道を抜けると、通称ヌギリヌパと呼ばれる岩場の海岸にでる(図9)。戦中、波照間島から強制疎開させられた島民の子供達は、この岩場で授業を受けた。この海岸から南に約20kmに日本最南端の有人島・波照間島はある。
図9. ヌギリヌパと呼ばれる岩場の海岸
 遊歩道を出てすぐ右手に2mはある台形の碑がある。この碑は1992[平成4]年に建てられた慰霊碑で、波照間島の方角を向いている(図10)。慰霊碑の左上にあるのが識名信升校長の像である。
 戦中、強制疎開させられた島民の間で、マラリアが猛威をふるう。犠牲が急激に増え、このまま疎開することに島民は皆、限界を感じる。そこで識名校長一行は密かに石垣島の宮崎旅団長に会いに行く。団長に会い惨状を訴えるが、当初は聞き入れられない。しかし、どうにか帰島の許可を得て戻るも、工作員の山下は疎開解除を拒む。この時、識名校長は島民の先頭に立ち山下と対峙し「斬るなら私を斬れ」と毅然と立ち向かうが、山下は「島に帰るなら玉砕を’覚悟しろ」と息まく。その後、島民は協議し満場一致で帰島を選ぶのである。戦争による死よりマラリアによる死の恐怖の方が優ったのだろう。
 右上の丸い石がその識名校長が帰島に際し子供達に授業をおこなった大岩に刻んだ「忘勿石 ハテルマ シキナ(波照間島島民よ、この石を忘れる勿れ)」の文字を複写したものである。
図10. 識名校長の像と慰霊碑
図11. 実際の忘勿石
「忘勿石 ハテルマ シキナ」と刻んだ実際の大岩は慰霊碑の右にひっそりとある(図11)。しかし、彫った文字はかなり見つけにくいうえに、文字を囲う四角い木枠も朽ちている。何らかの補修・保存が必要であろう。

(ストリートビューの表示が動いて大岩の文字が見えない場合には、北の方角に画面を向けるか、ジャイロセンサーを切って北方向を表示させてください)

 西表島は「高い島」の中でも特に資源豊かで、かつては県内で唯一、石炭の採掘も行われていた。当時は白浜から船浦にかけて島北西部には10社以上の炭坑会社が採掘をおこない、一体は西表炭坑とよばれていた。その西表炭坑で最大ともいわれるのが、丸三炭坑宇多良鉱業所(通称ウタラ炭坑)である。ウタラ炭坑は1935[昭和10]年に石炭層が見つかり、翌年丸三炭坑により宇多良鉱業所がつくられた。
 西表島北部の上原港から西に約5.7km、215号線を道なりに進むと県内最長の河川である浦内川河口に着く。道沿いの駐車場に着くと、遊覧船に乗る観光客で賑わっていた。この浦内川は遊覧船観光が有名だが、支流のウタラ川沿いには、ウタラ炭坑の跡(遺構)がある。駐車場奥の舗装されていない道を約1km進むと原生林の中に、トロッコのレールを引き込むレンガ柱が見えてくる。かつては、この地に2階建ての坑夫独身寮や戸建ての夫婦宿舎、300人収容の集会場兼芝居小屋や医務室、売店などもあったというが、今は木が生い茂り、当時の賑わいは想像できない。わずかに残るレンガ柱にもガジュマルが絡まり、今まさに原生林の中にのみ込まれようとしている(図12)。
図12. ウタラ炭坑跡に残るレンガ柱
 西表炭坑の坑夫は九州などの産炭地や台湾の産炭地、沖縄本島や宮古島から斡旋人の口車にのせられ連れて来られた。また、坑夫の多くが熱帯熱マラリアの分布しない地域から集められたことや、「圧制炭坑」による劣悪な労働環境により、その多くがマラリアに罹患したといわれる。2007[平成19]年には日本近代化産業遺産群の1つに指定されている。また、2010[平成22]年には付近に木道が整備され、犠牲者を追悼するための「萬骨碑」もつくられた(図13)。そのため現在では、観光客も訪れるようになってきた。
図13. ウタラ炭坑跡にある萬骨碑
 日本海軍は日露戦争中から軍艦の燃料を石炭から石油へと切替える研究を行っていたが、西表炭坑の採掘が開始された1886[明治19]年当時、まだ軍港と貯炭場は補給基地として重要不可欠であった。特に西表島は南方防備の面でも重要であり、それにいち早く気付いていたのが、田代安定であった。既出の「沖縄県下先島回覧意見書」でも、田代は未だ採掘がおこなわれていなかった西表の石炭について、急ぎ調査・採掘に着手するよう主張している。その後田代は再び八重山列島の調査に赴き、自身もマラリアに罹患しながら石炭層やマラリアの調査等を行う。この調査を終える直前の1886[明治19]年3月、山縣有朋(内務大臣)は西表炭坑と船浮港を視察に訪れ、田代から報告を受ける。この視察には、同年2月、既に三井物産が内離島(西表島に属する小島)での採掘を開始していたため、社長の益田 孝も同行している。船浮港は、炭坑に近接しているという利点以外にも、港は大陸に面し、周辺の海底が深く山に囲まれた入江となっていることや、船浮港のある湾を隠すように内離島があるため、地政学的な軍事的価値が高かった。そのため、日露戦争時には東郷平八郎(連合艦隊司令長官)一行が極秘裏に船浮港を視察し、その後1941年には要塞が築かれている。
 ウタラ炭坑から約8km、上原港から約13km、215号線沿いに西に進むと、その突き当たりに白浜港がある。船浮港へは、現在も陸路では行けず、白浜港から出るフェリーでしか行くことができない。船の所要時間は約10分、内離島との間を抜けて湾口にある船浮港に向かう。船浮港に近づくと、すぐ左の岩場に要塞跡が見えてきた(図14)。
図14. 船浮湾の岩場に見える要塞跡
 フェリーを降りると、左に白い琉球真珠株式会社の建物が見える。そこの前を更に左に進んだ先に要塞跡の豪はある(図15)。要塞には重砲兵連隊が配備され、高台に高射砲や野砲など六門が据えられたという。
図15. 船浮地区の南端にある要塞跡
 船浮港から右に100mほど歩くと、船浮小中学校の手前に「西表館」という私設・歴史資料館がある。西表炭坑や要塞についての資料が展示してあり、敷地前には「イリオモテヤマネコ発見捕獲の地」の碑もある(図16)。
図16. 船浮地区の私設・歴史資料館「西表館」
 過去に悲惨な戦争マラリアも経験したが、今日ではこの島から土着マラリアを含めマラリアを完全に根絶することができた。マラリアの撲滅とほぼ同時期(1960年代初頭)、細々と続いていた炭坑が閉じられる。その後、島は過疎化傾向にあった。しかし今後、世界自然遺産に登録され観光客が増えるようになると、今度は輸入マラリアの対策も必要になるのではないか。2003年の當間らの報告によると、コガタハマダラカの生息が西表島でも確認されている[1]。そんなことを考えるとマラリアも中央からのしわ寄せもない今が、最も平和なのかもしれない。
 私たちはこの島がマラリア流行地であったがゆえに、日本最後の秘境たらしめたことを決して忘れてはいけない。
 

[1] T. TOMA, et. al., Distribution and seasonal prevalence of Anopheles minimus Theobald (Diptera: Culicidae) in the Yaeyama Island group (except Ishigaki Island), Ryukyu Archipelago, Japan, 1999-2000, Med. Entomol. Zool. 54 (2003) 267–274. doi:10.7601/mez.54.267.

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