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力道山をプロレスへと導いた風土病

力士としての力道山

 終戦後、意気消沈していた日本人に、勇気と自信を取り戻させた男、力道山。彼が大相撲の力士だったことを知っているだろうか。その力士、力道山が大相撲からプロレスラーへ転向した背景には、ある風土病が深く関わっていた。
 力道山の初土俵は1940(昭和15)年、5月の夏場所であった。その後、9場所という驚くべきスピードで序ノ口から十両へと駆け上がる。この間に全勝優勝を2回果たし、負け越しは1回だけであった。得意技は突っ張りと張り手、そして外掛け、特に突っ張りと張り手については右に出るものがいなかったという。その後も、わずか8場所で東の小結に、引退の前年となる1949(昭和24)年には西の関脇にまで出世する。しかし、関脇として初登場する同年の夏場所直前、アクシデントに襲われた。全身が熱っぽく咳や痰がとめどなく出て、吐き気も止まらない。体重も18kg落ち、力も湧いてこない状態になってしまった。休場こそしなかったが、この場所の成績は3勝12敗という散々な結果に終わる。結果、関脇の座はわずか1場所で吹き飛び、それからわずか1年後の1950(昭和25)年9月、自宅台所の刺身包丁で自ら髷を切り、大相撲を引退する(図1)。
図1. 報知新聞 1950年9月12日付, 3(2)

力道山を襲った病魔

 当初、体調不良の原因は不明であったが、その後の入院・検査で原因が判明する。後に力道山の個人秘書となる吉村義雄氏がその著書「君は力道山を見たか」において以下のように書き残している。
ある晩、野村ホテルにいったら、ボハネギーが言うんです。
「吉村、リキが病気で入院しているぞ」
...(中略)...
「病気っていったいどうしたの?」
と、わたしは訊いた。
「それがフルーク・インフェステーション(fluke infection)だっていうんだ」
「フルーク・インフェステーション?」
「うん、ジストミアシス(distomiasis)」
「ジストマ(distoma)か?」
「そうそう、ジストマとかいってたよ」
「入院しているの、どこに?」
「人形町の明治病院っていうとこ......」
 早速わたしは、人形町の明治病院へ花束を抱えてお見舞いに行きました。
...(中略)...
「リキさん、いったいどうしちゃったっていうの?」
とわたしが声を掛けると、
「それが、バカなことになっちゃったんだ。巡業先でさ、ついうっかり生の川ガニ、食べちゃった。おかげでこれだよ。肺臓ジストマ(肺吸虫)とかっていうのにかかっちゃった......」
と答えて、力道山は力なく笑いました。
※( )内は著者による訳注
 つまり、力道山は淡水産の蟹(川ガニ)を喫食し「肺吸虫症」を罹患していたのである。

肺吸虫症の原因虫

生活環と感染経路

 肺吸虫症とは肺吸虫属 (Paragonimus spp.)の寄生虫が引き起こす疾患である。わが国ではこれらの寄生虫を原因とした肺吸虫症が現在でも年間で50症例ほど発生していると考えられている[1]。
 ヒトへの感染経路は下の図に示すように主に2つあり、淡水産のサワガニ(Geothelphusa dehaani (White, 1847))やモクズガニ(Eriocheir japonica (De Haan, 1835))などの第2中間宿主に寄生した被嚢幼虫(メタセルカリア)を生きたまま取り込んだ場合と、イノシシ(Sus scrofa Linnaeus, 1758)やシカ(Cervus nippon Temminck, 1838)などの待機宿主の筋肉内に寄生する幼若幼虫を生きたまま取り込んだ場合である。いずれの感染経路においてもヒト等の終宿主に取り込まれた場合、小腸から侵入し、体内(腹腔や腹壁筋肉)を動き回る。その間に幼虫は成長して、最終的に成虫へとなり肺実質に侵入する(図2)。
図2. 肺吸虫の生活環

症状

 感染してから、胸腔に侵入するまでの約1ヶ月は無症状であることが多い(まれに、下痢や腹痛などの消化器症状を示すこともある)。しかし胸腔やさらに胸膜腔に侵入するようになると胸膜の炎症や胸水貯留がおき、胸痛や呼吸困難などの気胸様の症状を示す。感染後2~3ヶ月すると肺実質やその周辺に侵入し、成長を遂げた成虫が産卵を開始するため、咳などの呼吸器症状が現れる。また喀痰中にはチョコレート色の血痰とともに成虫から産み落とされた虫卵が見つかるようになる。
 肺吸虫属は他の扁形動物と同様に雌雄同体であるが、通常は2隻で肺実質内に虫嚢をつくり、精子交換を行う。1隻のみで寄生した場合、ペアを探して胸膜腔内を動き回るため、胸膜炎および胸水貯留を主症状とする。しかし、1隻のみ寄生した場合でも虫嚢をつくり産卵するグループがいる。このグループは3倍体の核型(4倍体グループと通常の2倍体グループとの交雑により生ずる染色体構成)をもつため単為生殖をおこなう。つまり、1隻で寄生した場合でもペアを探し回る必要がないため、すぐに虫嚢を形成する。このグループは現在、肺吸虫属の中ではウェステルマン肺吸虫(Paragonimus westetrmanii (Kerbert, 1878))にだけ見つかっており、自然界における主な第2中間宿主をモクズガニとすることが知られている(通常のウェステルマン肺吸虫の主な第2中間宿主はサワガニである)。
 肺吸虫症は上記の様な胸部肺吸虫症以外に、各所に迷入する肺外肺吸虫症も引き起こす場合がある。これは終宿主であっても体内を動き回るためであり、皮下に侵入した場合には移動性の皮下腫瘤、脳内に侵入した場合は脳腫瘍のように重篤な症状にもなる。

感染予防・対策

 感染源となるサワガニやモクズガニ、イノシシやシカの肉を、生あるいは不完全な加熱のまま食べないとことはもちろんであるが、それらを調理した包丁やまな板などの調理器具を十分に洗浄することも必要である。感染を予防するための詳細な温度条件も公表されているが、まずは細菌やウイルスを原因とする食中毒対策(中心温度75℃・1分間)と同様に十分に加熱して喫食することを心掛けてほしい[2-5]。しかし、食中毒を引き起こす細菌やウイルスと異なる点もある。肺吸虫は第2中間宿主(サワガニやモクズガニ)や待機宿主(イノシシやシカ)の体内で増え続けることはないため、時間の経過とともに感染のリスクが上がることはない。むしろ宿主が死滅すると生存できないため、鮮度が高いほど感染のリスクも高くなると考えられる。また、生きた幼虫(被嚢幼虫・幼若幼虫)を1隻でも体内に取り込めば感染する可能性が十分にあることも細菌やウイルスと異なるので是非、頭の片隅に入れておいて欲しい。

近年の動向

 近年の国内における肺吸虫症の発生状況を患者の属性でみると、日本(関東地方)に住む外国人女性と九州地方の日本人男性のグループに大別される。外国人女性のグループはタイなどの東南アジア圏出身者が多く、そのような国々では日本のサワガニに似た淡水産の蟹を生のままサラダに混ぜて食べるため、来日してからも同様の食文化を持ち込み感染に至っている。また、九州地方ではイノシシやシカの狩猟に関わる人々を中心に感染が起こっている。日本でも以前は淡水産の蟹を介した感染が大多数を占めていたが、サワガニやモクズガニを消費する人々への啓発が徹底したことや、そもそも消費する人が減って淡水産の蟹を食べるという食文化そのものが無くなりつつあるため、症例数が減ってきていると思われる。しかし、昨今ザリガニ(Procambarus(Scapulicambarus) clarkii(Girard, 1852))を掴まえて食べるという新たな活動を耳にする機会があった。来たるべき人口爆発に端を発した食料危機に対するサバイバル指向の高まりが背景にあるようだ。2013年には国連食糧農業機関(FAO)による昆虫食の推奨も追い風になっていると考えられる[7]。アメリカでは実際に掴まえたザリガニを食べて肺吸虫症に感染した事例も報告されている[8](図3)。日本のザリガニからも肺吸虫の被嚢幼虫は検出されているので今後、日本でも注意が必要だ[9-10]。
図3. ザリガニの喫食に関する啓発ポスター

その後の力道山

 力道山は2ヶ月の入院中、アメリカからエメチンとクロロキンという薬を大枚はたいて取り寄せ、治療したらしい。特にエメチンは毎日5本ずつ投薬してしていたので金銭的にもかなり逼迫していたという。しかし、頼みの綱であった親方に融資を頼むも無下に断られ、精神的にも窮地に追い込まれる。ちなみに現在ではプラジカンテル(ビルトシド60mg錠:バイエルン)を75mg/kg/日で3日間投薬することが一般的であり、この薬による肺吸虫症の治療は医療保険の適応対象である[6]。 引退の理由は肺吸虫症に起因する体力の低下や、金銭的なことなどが重なり、最終的には大相撲に失望したためだといわれる。しかし大相撲と訣別したように思える力道山であったが、四股名「力道山」を捨てなかっただけではなく、必殺・空手チョップも大相撲時代の得意技である張り手を自分なりに工夫して完成させている。天皇の次に有名な日本人と呼ばれるまでになったプロレスラー「力道山」は、肺吸虫に感染していなかったらその後のプロレスでの活躍もなかったのかもしれない。

事件の現場

 力道山が肺吸虫症に罹患したことを吉村義雄氏が最初に伝え聞いた現場として、野村ホテルが出てくる。野村ホテルとは当時、力道山らが溜まり場にしていた米軍専用ホテルで、そこにいるボハネギーという軍属と懇意にしていたとされる。このホテルの場所については「新橋の第一ホテルの裏手にある」ということしか記されていなかったため、少し調べてみた。建物は元々、1929年6月に仁寿生命保険本社(後に野村生命保険株式会社と合併)として千代田区内幸町2町目11番(現:千代田区内幸町1丁目5−2)に建てられたようである。戦後(1946年1月)GHQに接収され、1955年3月に返還されるまで、野村ビル軍属宿舎(通称:野村ホテル)として開業していたとの記録が残る(図4)。当時の建物は1980年代に取り壊され、現在は阪急阪神第一ホテルグループの「第一ホテルアネックス」が建っている。
図4. 野村ホテル周辺の地図


文献

[1] 杉山 広ら, 【見逃すな、寄生虫感染症!】好酸球増多を主症状とする寄生虫感染症 肺吸虫症, 臨床と微生物. 41 (2014) 373-378.
[2] 杉山 広ら, 肺吸虫感染を予防するためのサワガニ加熱条件の検討, Clin. Parasitol. 21 (2010) 43–45.
[3] 杉山 広ら, 肺吸虫の感染を予防するためのサワガニ冷凍条件の検討, Clin. Parasitol. 23 (2012) 57–59.
[4] 杉山 広ら, 野生鳥獣肉(ジビエ)を介した肺吸虫症の感染リスク, Clin. Parasitol. 27 (2016) 40–42.
[5] 津田守道, 肺吸虫Paragonimus westermaniの生物学的研究 (2) 肺吸虫被嚢幼虫の抵抗に就いて, 寄生虫学雑誌. 8 (1959) 812–821.
[6] 熱帯病治療薬研究班 オーファンドラッグ中央保管機関 資料集 寄生虫症薬物治療の手引き」_2017ver.pdf (https://www.nettai.org/資料集/)
[7] FAO News Article Forest products critical to fight hunger - including insects (http://www.fao.org/news/story/en/item/175922/icode/)
[8] M.A. Lane et. al., Paragonimus kellicotti Fluke infections in Missouri, USA, Emerg. Infect. Dis. 18 (2012) 1263–1267.
[9] 横川宗雄, 肺吸虫流行地におけるアメカザリガニの検査成績について Ⅰ, 医学と生物学. 25 (1952) 205-307.
[10] 横川宗雄, 大島智夫, 静岡県下肺吸虫流行地におけるアメカザリガニの感染状況 Ⅱ, 医学と生物学. 27 (1953) 65-68.





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