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かつての片山病流行地を訪ねて

福山市の独立丘陵「片山」

 広島県福山市は人口、約46万人の地方都市で、備後地方を流れる芦田川のデルタ地帯に作られた福山藩の城下町を起源とする。3〜4千年前、福山市いったいは「穴の海」と呼ばれる広大な湿地帯あるいは遠浅の海であった。特に今回訪れた片山周辺は戦国時代まで広大な湿地帯(神辺平野)が広がっていた。しかし、関ヶ原の戦いの後、水野勝成が福山に入封すると河口付近を埋め立て、城下町をつくり、片山周辺の湿地帯は水田へと変えられてゆく。市の中心駅である福山駅から北に約5km、神辺平野を流れてきた芦田川と高屋川が合流する地点のすぐ東側、標高約70m、東西480m、南北180m、平坦な水田の中にそれはある(図1)。
図1. 高屋川の土手から片山を望む(手前は川南排水機場)

片山病について

 かつて片山の周辺では、水田に入ると湿疹ができ、原因不明の不治の病を患うことが知られていた。そのためこの病を「片山病」とよんでいた。いつの頃からこの病が存在していたのかは不明だが、恐らく片山周辺に広がる湿地の水田開発が行われた後に罹患者が増加し、広く認知されるようになったと考えられる。症状に関する記述は明和元(1764)年に有馬喜惣太が作成した「中国行程記」において既に以下のような記述が見られる。
此の古城は形山の城と云、神辺村の川南分の城と云なり、此辺の田の中え入れは人別足かぶれて難義す、夫故漆山共云、東の方尾根筋に堀切二ヶ所有、矢倉の跡多し、城主知らず
 これによると形(片)山にはかつて城主不明の山城が築かていたようである。また、この周辺の水田に入ると足に湿疹ができることから、「漆山」とも呼ばれていたことがわかる。片山病について、その病状を初めて克明に報告したのは、肥後国沼隈郡山手村(現在の広島県福山市山手町)の漢方医、藤井第二郎好直である。彼は弘化4(1847)年に「片山記」を作成し、その中で症状について以下のように記述している。
近時二三年間、春夏の交、土民田を耕して水に入れば足頸に小疹を発し痛痒忍ぶべからず。牛馬また然り。人皆大いにこえを患う。以て漆気(しっけ)の故となす。また患い泄瀉する者多く、その症、面色(めんしょく)萎黄(いおう)、盗汗肉脱(とうかんにくだつ)、脈皆細数なお癆さいを疾す。水瀉するものあり、夷急後重する者あり、下血する者あり、下膀治する者あり、やや久しくして四肢痩削(そうさく)、独り腹脹すること鼓の如し。乳下に青筋絡脈を見、臍穴(さいけつ)凸出る。甚だしきはすなはち腹皮に光りを生じ、映物至る。終には足腑浮腫(そくふふしゅ)して斃る。予これを診て何の病たるかを知らず
 なお、原本は昭和初期に焼失し、現存しないが、広島県片山病撲滅組合により1954年に復元されたものが残っている(図2)。また、症状以外に、漆山の由来にも触れられており、そこには「言い伝えでは昔漆を積んだ商船が停泊していたところに大風が吹き、船が転覆したため漆山というようになった」という記述が見られる。 

片山病原因究明と対策の経緯

第1期:病状報告と調査の必要性を訴える

  • 1847 [弘化4]年:漢方医 藤井第二郎好直が「片山記」において漢文であるが初めて詳細な病状を記載
  • 1873 [明治6]年:医師 窪田二郎が本症を「片山病」と称して臨床症状を医事新誌に投稿
  • 1877 [明治10]年:漢方医 藤井第二郎好直が再び「片山附記」において片山病の病状と原因究明を訴える
  • 1882 [明治15]年:広島県 片山病調査委員会は、症状を確認するが、マラリアに似た疾病であるとの報告に止まる
  • 1901 [明治34]年:開業医 吉田龍蔵は、病原を明らかにするために死体解剖の実施を提言
図2. 復元された片山記の冒頭部分

第2期:原因究明のための組織発足と病原の解明

  • 1903 [明治36]年:吉田龍蔵・真木 等は井上熊吉の屍体を剖検し、臓器(肝・脾・腸)に病変と組織に虫卵を認めたため、京都帝大 藤浪 艦に病理学的調査を委託
  • 1904 [明治37]年:岡山医専 桂田富士郎は、山梨のネコから日本住血吸虫を発見し命名(5月26日)
  • 1904 [明治37]年:吉田龍蔵は、藤浪 艦を招聘し、広島県の他殺屍体を剖検、門脈より人体初となる成虫(雌)を検出(5月30日)
  • 1907 [明治40]年:吉田龍蔵を中心とする「地方病研究会」が発足
  • 1909 [明治42]年:藤浪 艦・中村八太郎は、片山付近のウシを用いて日本住血吸虫の経皮感染を証明
  • 1909 [明治42]年:桂田富士郎・長谷川恒治は、岡山県高屋と山梨県甲府のイヌとネコを用いて日本住血吸虫の経皮感染を証明
  • 1909 [明治42]年:京都帝大・皮膚科 松浦有志太郎は、片山の有病溝に自ら入り、人体おいても経皮感染することを証明
  • 1913[大正2]年:九州帝大 宮入慶之助・鈴木 稔は、佐賀県三養郡基里村の水田にてミヤイリガイ(カタヤマガイ)を発見し、同時に日本住血吸虫の中間宿主となることを確認・証明
 片山病の病原となる日本住血吸虫Schistosoma japonicum Katsurada, 1904とそれにより引き起こされる疾病(住血吸虫症)についての説明はここでは省く。詳しく知りたい場合は以下のYouTube動画が参考になるので載せておく。

第3期:日本住血吸虫症(片山病)の防圧

  • 1918[大正7]年:片山病の全容が解明されたことから地方病研究会を解散し、防圧を主とする「広島県地方病撲滅組合」を組織(流行地9村で発足し、最終的には14村となる)
  • 1926[大正15]年:摂政殿下であった当時の昭和天皇は吉田龍蔵と会い、片山病研究の労をねぎらう
  • 1948[昭和23]年:昭和天皇が1925年に神辺に立ち寄った際「その後片山病はどうなっていますか」と尋ねたことを記念して、「広島県地方病撲滅組合」は名称を「御下問奉答地方病撲滅組合」と改める
  • 1949[昭和24]年:広島県衛生研究所の支所として片山病予防研究所が神辺町に設置され、同時に附属診療所も開設される
  • 1968[昭和43]年:広島大学に寄生虫学教室が新設され、初代教授に千葉大学より辻 守康を迎え、血清学的診断を併用した住民検診が精力的に行われるようになる
  • 1981[昭和56]年:辻を委員長とする広島県の委員会は「片山病流行終息宣言」を出し、「御下問奉答地方病撲滅組合」を解散する
 片山周辺では、1918年から1979年までの間に殺貝剤(消石灰・石炭窒素・NaPCP)を9,277,803.9kg使用し、中間宿主のミヤイリガイを撲滅した。また、同時に水田の水路を3面コンクリート溝渠(こうきょ)とすることでミヤイリガイが棲み辛い環境にした。その結果、この地域における日本住血吸虫の虫卵陽性者は1967年を最後に全く検出されていない。また、ミヤイリガイも7個の非感染貝を1973年に認めて以来検出されていない。

片山病防圧に関する遺構

 片山病究明に尽力した人々の碑 

 福山駅よりバスに揺られ、約5kmほど北にいった、391号沿いにある新茶屋バス停で下車した。時刻は午後4時半ごろであったため、陽射しは傾きかけていた。バス停のすぐ目の前に赤い小さな2つの鳥居と祠が見えた。道を横断して鳥居に近づくと「正膳稲荷神社」と書いてあるのが読み取れた(図3)。
図3. (右)正膳稲荷神社・(左)バス停のある幹線道路
 鳥居の右奥に2つの碑が立っているのが見えたので回り込むと、目的とする「藤浪(艦)先生功徳碑」と「吉田(龍蔵)先生頌徳碑」があった。この碑は元々、1926年に広島県地方病撲滅組合により旧吉田医院の前に立てられたものである(図4)。その後、吉田龍蔵の長女の寄付によって、修繕されたようであるが、碑の文字はかなり読み辛くなっているため、ここでは「吉田(龍蔵)先生頌徳碑」の碑文のみを以下に記す。
吉田先生頌徳碑
深安郡片山近傍古来有地方病称片山病其共為症也発疹発熱肝蔵肥大発育不良遂以吐血腹水等而斃矣地方民多罹之者其勢猖獗益弥蔓於是中津原村監師吉田竜蔵君深之以闡明共病原一掃病毒為己任明治三十七年起地方病研究会躬為会員或施療或給資以受大家之診療此年十月自剖検一患者屍認共肝臓変状之著名者爾来聘京都帝国大学教授藤浪鑑氏屍体解剖遂至発見病原尋地方病撲減組合成立為爾来前後十有九年干玆研究究之成果撲減之事業著々進展今也大減患者数新罹之者亦稀矣是実吉田竜蔵君多年熱心努力之功也大正十年四月本県知事贈金盃以表彰其績而今夏五月摂政殿下行啓之際特被召賜拝藹可謂光栄矣頃日依依組合之議欲建頌徳碑以不朽共名請余文乃記其梗概如此
広島県知事正四位勲三等未松偕一郎題額
鴨里平川参撰文時年八十二
大正十五年十月 九皐稲田斌浄書時年六十一
図4. (右)吉田先生頌徳碑・(左)藤浪先生功徳碑
 碑の裏側(バス停側)には、いずれも大きな文字で「広島県地方病撲滅組合建立」と彫られているのがわかる(図5)。2つの碑はバス停のある幹線道路(391号)と細い道路との合流地点にあり、バス停のある幹線道路からみると、背を向けて立っているように見える。しかし、昭和初期、碑の西側にある新茶屋バス停は、狭い新茶屋の家並を避けるようにつくられ、その後にバス停側の方が幹線道路となったため、碑は建立した当時の幹線道路(バス停とは逆側の細い道路)を向いて立っている。
図5. 裏に刻まれた「広島県地方病撲滅組合建立」の文字

コンクリート溝渠

 新茶屋バス停から徒歩で南下し、鶴ヶ橋を渡り、高屋川左岸へ向かうとコッペパンのような形をした片山が見えてきた。この時、すでに午後5時を過ぎていたので陽射しは完全に傾き、暗くなりつつあった。川南排水機場(図6)あたりから水田に入り、畦を歩きながら片山病の遺構を探した。この排水機場から約300m下流にある鶴ヶ橋周辺では、かつて毎年のように梅雨の時期になると、近隣の家々は浸水していた。その対策としてこの排水機場が造られたようである。
図6. 高屋川の左岸にある川南排水機場(通称ポンプ場)
 水田の畔を片山に向かって北上しながら歩くと、溝渠にプレートが張り付いているのが見えた(図7)。片山周辺における溝渠のコンクリート化事業は1950年から1978年まで続けられ、総延長165,821.4m、総工事費は200億円といわれ、費用の負担は公費によるとこが大きい。
図7. 片山の南側に広がる水田とコンクリート溝渠
 プレートは白く腐食し汚れていたので、磨いてみた。すると、「昭和46年度 地方病予防施設 施工者 総成土建」という文字が見えてきた(図8)。なお、「総成土建」で調べると福山市神辺町大字川南に同名の会社が存在する。
図8. 「地方病予防施設」のプレート
 水田には数多くのスクミリンゴガイがいた。また水田や溝渠の壁にはその卵(ピンク色)がたくさん付着していた。当初はミヤイリガイを探すつもりであったが、辺りが暗くなりかけていたことと、あまりのスクミリンゴガイの多さに辟易してしまい、早々に断念した。
図9. 溝渠の壁に付着するスクミリンゴガイの卵
 ミヤイリガイの殺貝剤は片山付近の生態系(特に貝類)に大きな影響を及ぼしたと考えられる。しかし、現在その水田にはスクミリンゴガイ等の貝類が多く見られた。おそらくこの地域の貝類生息環境が改善し、その生態的ニッチにスクミリンゴガイが侵入することで、現在の大繁殖を引き起こしたのだろう。貝類が水田に戻ってきたということは、ミヤイリガイが片山周辺で見つかる日も近いかもしれない。なぜなら私は今でも、どこかでひっそりミヤイリガイが生息していると考えているからである。

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